時雨  35






昨日、新田に背中を押されるように沖田の元へ挨拶に向かった。
しかし営業部の部屋にいた沖田は、数人の人に囲まれて話をしていた。
少し遠巻きから見ていたのだが、どうやらその人だかりがとける事はなさそうだった。
諦めようとした時、沖田がセイの存在に気付いた。

セイに向かって微笑んだ沖田だったが、その場にいた人物に話しかけられ、再びセイから視線を外してしまった。
慌てて笑顔を返したのだが、忙しそうな沖田の様子を見て、仕方なく諦めてその場を立ち去った。
沖田の元へ行けと言ってくれた新田に申し訳ないとは思ったが、どうせすぐ会えるのだからと自分に言い聞かせるように家路に着いた。



家に着くと同時に、携帯が鳴った。
表示されている名前を見たセイは、慌てて通話ボタンを押す。

「も、もしもしっ」
緊張で声が少し上ずってしまった。
『あ、神谷さんですか?』
電話の向こうから、沖田の優しい声が聞こえる。
「はいっ」
『もうお家ですか?』
「ええ、今帰ってきました」
知らないうちに、電話を持ったまま正座をしていた。
『そうですか。 さっきわざわざ来てくれたのに、すみませんでした』
「いえっ! 全然大丈夫です。 沖田さん、忙しそうだったからお邪魔かなと思って…」
『まさか。 邪魔なわけがないでしょう。 挨拶に来てくれたんでしょう? 嬉しかったですよ。 でもお話出来なくてひと言謝りたくて』
申し訳なさそうな沖田の声に、セイの胸がキュンと鳴った。
「とんでもないです。 それよりも、もうお仕事は終わったんですか?」
『ええ、あと少ししたら帰ろうと思ってます。 どうせ明日も来ますからね』
「良かった・・ お疲れ様でした」
『ありがとうございます。 明日、楽しみにしてますから』
「私もですっ!」
思わず腰を浮かして、元気良くそう答えていた。
『あははっ そんな元気良く言ってくれなくても』
セイは、恥ずかしくて口に手を当てた。
「ご、ごめんなさい」
『いえ、大丈夫です。 それよりも、明日なんですけど… 時間は夕方の5時くらいでも大丈夫ですか?』
「私は何時でも大丈夫です」
『そうですか、良かった。 私もなるべく早く仕事を切り上げていきます。 楽しみにしてますね』
「はいっ 私も楽しみにしています」

おやすみなさいと言う沖田に、セイもそう返すと電話を切った。




翌日、朝からセイはそわそわしていた。
きっとその様子を見ている人物がいれば、一体何をそんなに慌てているのかと聞かれても不思議ではないくらいにヘマばかりしてしまっている。
約束の時間までは、まだある。
なのに何も手に着かない。
恐らく、最後になるであろう沖田との食事。
以前ならいつもと変わらないごく普通の食事のはずなのに、沖田への想いを自覚してしまった今では、これはデートなのではないかと錯覚してしまう。
きっともう彼は自分に対しての気持ちはないはずだと分かっているのに、それでもこんなに浮かれている自分がいる。

午後3時。

この家から約束の場所までは、せいぜいかかっても20分だ。
それでも家でじっとしていられなくなったセイは、早めに出る事にした。
街をぶらぶらしているうちに、時間は過ぎるだろう。
用意万端のセイは、バッグをつかむと家を出た。








「沖田・・さん?」
そろそろ全ての整理が終わり、会社を出ようとしたところで声をかけられた。
振り返ると、女性が立っていた。
見覚えはあるが、どこの部の誰かは全く分からない。

「土曜日なのにお疲れ様です。 来週から大阪へ行かれるんですよね?」
「あ、はあ…」
頭を下げる女性を、沖田は訝しげに見る。
そんな沖田の顔を見て、ぷっとおかしそうに笑った。

「失礼しました。 私は秘書課の山崎由香と言います」
「ああ、秘書課の… こちらこそ、すみません」
沖田は、慌てて頭を下げた。
「いえ、とんでもないです。 私、セイとは同期で仲が良いんです。 それで沖田さんのお話も良く聞いていたんですよ」
「神谷さんと? そうだったんですか。 失礼しました」
どうりで見覚えがあるはずだ。 
秘書課といえば、営業部とはほとんど接点がない。
それなのに、なぜ顔は知っているのだろうかと思ったのだが、納得した。
「あなたも土曜なのに仕事なんて大変ですね」
「いえ、今日はたまたま上司が午後から出張に出る予定だったので、用意の手伝いに出てきただけです。 もう帰りますよ。 営業部の前を通ったら沖田さんが見えたので、ひと言ごあいさつをと思ったんです」
「それはわざわざありがとうございます」
沖田は照れくさそうに笑った。

「それで… 初対面で失礼かとは思いましたが、沖田さんにお願いしたい事があって…」
上目づかいで訊ねる由香に、沖田は不思議そうに首を傾けた。
「お願いしたい事? 私にですか?」
「はい。 沖田さんにしか頼めない事なんです。 宜しいでしょうか?」
「あははっ そう言われると、はいとは素直に言いづらいですね」
笑って頭を掻いている沖田に、由香もふふっと笑う。
「お願い出来ますか?」
「ええ、どうぞ」
にこやかに答える沖田に、由香はゆっくりと話した。


「あの…」




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