時雨 26
「おはよう、セイ」
肩をぽんと叩かれかけられた声に振り返ると、元気いっぱいの由香が立っていた。
「由香ちゃん、おはよー。 ゆっくり休めた?」
「うん、昨日は疲れて1日家でのんびりしてたよー。 セイは? 仕事大丈夫だった?」
2人は並んで歩き始めた。
「なんとか。 でもすっごい眠かったけどね」
「だよねー。 皆のペースで歩き回ってたら帰ったの夜中だもんね。 会議なんて私絶対無理だな」
そういうと由香はあははっと笑った。
セイもつられて笑顔になる。
「そうだ。 今晩仕事終わったらご飯でも食べに行かない?」
「ご飯? うん、良いよ」
「やった! ずっとセイのこと誘おうと思ってたんだけどさ、彼氏出来てからは遠慮してたんだ。 これからはバンバン誘えるんだよね」
「あ・・・うん、そう・・だね」
由香の言葉を聞いて、セイの心の中は急に暗くなる。
「あれ? もしかして、まだしつこくつきまとわれてる?」
セイはあわてて顔を上げると、笑顔で手を振った。
「ううん、大丈夫。 今晩楽しみにしてる」
「そう? もしまだ何かあるなら夜聞くから話してね」
「ありがと」
「じゃあ私総務よって郵便物もらってくるからここで」
会社のロビーに着くと、由香はセイにそう言って手を振った。
「うん、仕事終わる時間わかったらメールするね」
セイも由香に手を振ると、エレベータに向かった。
今日も新田はセイに声をかけてくるのだろうか。
昨日は寝不足と疲れでへとへとだったのに、新田のことを考えるとすぐには寝付けなかった。
何と言えば理解してくれるのだろう。
いくら考えてもわからなかった。
今日由香と食事に行くということを、新田に断るべきなのだろうか。
付き合っているといって良いか分からない今の状況で、わざわざ新田に言うのもおかしな気がする。
かと言って、由香と一緒にいるところに待ち伏せされて出てこられるのも困る。
セイは大きくため息をついた。
「沖田ー、今日の予定は?」
「え? ああ、今日は午後から池袋の予定」
沖田はパソコンの画面に目を向けながら答えた。
「池袋か・・ このお客なんだけどさ、前沖田が担当してたよな?」
そういうと、新田は資料を沖田に見せた。
沖田は振り向くと、新田から資料を受け取り目を通す。
「うん。 何かあった?」
「いやー、なかなか手強くてさぁ。 もし時間空けば、1回一緒に客先付き合ってくんないかと思ってさ」
「あー、確かに。 別に行くのはいいけど・・・ いつも誰にアポ取ってる?」
「部長の山木さん」
「あの人はやめたほうが良いな。 営業の主任で黒田さんているから、その人通して話するといいかも知んない」
「マジで? 名刺ある?」
「あるある。 ちょっと待って」
そういうと、沖田はデスクの引き出しを開け名刺ホルダーと取り出し名刺を探し始めた。
「新田と沖田、ちょっと良いか?」
あったあったと沖田が名刺を取り出した時、後ろから声がかかった。
振り返ると、部長が少し離れた所に立っている。
「あ、はい?」
「ちょっと2人とも第2会議室に来てくれ」
そういうと、部長はオフィスを出て行った。
「?」
新田と沖田は顔を見合わせると、首をかしげた。
「何だろう?」
「さあ?」
訳が分からないまま、2人は取りあえず指定された会議室へ向かった。
「大阪?」
新田が驚いたように声を出した。
「ああ。 知ってると思うが、今はこの営業部から田所が行ってる。 そろそろあいつをこっちに戻そうかと思ってる。 そこで、君たち2人を後任に行かせようかと思っている」
突然のことに、2人とも驚いてただ目の前の上司を凝視している。
「あっちに行けば、課長という肩書がつく。 当然栄転だ。 向こうはまだまだ立ち上げて数年の未熟な支店だ。 是非君たちの力で売上を伸ばして欲しい」
「僕たち2人ともですか?」
沖田が静かに訪ねた。
「いや、田所の後任だから、お前らのうちどちらか1人だ。 しかし私は君たちは2人とも甲乙つけがたいほど優秀だと思っている。 だから私にはどちらかを選べない。 2人で話し合って決めてほしい」
「ぼ、僕たちでですか?」
2人は目を見開いた。
「突然転勤だと言われて、困ることもあるだろう。 だから、その辺も考慮して2人で考えてほしい」
沖田と新田は黙りこんでしまった。
「異動は来月を予定している。 少々急な話だが、悪い話ではないはずだ。 よく考えて結論を出して欲しい」
「・・・・・分かりました」
小さく返事をすると、2人はその場を立ち上がり、軽く会釈して会議室を出た。
どこか暗い空気で歩きだした2人は、どちらともなく喫煙室へ向かった。
タバコに火を点けると、ため息と一緒に煙を吐き出した。
「大阪か・・・」
「・・・・・うん」
そのまま2人は黙り込んだ。
もちろん大阪に行けば出世が約束されている。
しかし前任者を見ていて分かる通り、1度行ってしまえば最低でも3年は戻って来られない。
戻って来られる保証もない。
こちらでの生活もある。
出世のために、すべてを投げ出して大阪へ行ってやろうという気には、すぐにはなれなかった。
「新田は、どうしたい?」
2本目のタバコに火を点けた沖田がたずねた。
「え・・・?」
「新田のしたい通りにして良いよ。 もし行きたければ譲るし、行きたくないなら俺が行く」
「・・・・何で?」
突然の言葉に、新田は驚いて沖田を見た。
「もちろんここを離れたくはないけどさ、別に離れられない理由がある訳じゃない。 でもお前にはあるんじゃないの?」
「えっ?」
思わず声をあげた新田に、沖田は意味ありげに笑った。
「神谷さんとか」
「セイ?」
「ヨリ、戻したんでしょ?」
「・・・・・・・」
何と答えて良いか分からない新田は、思わず顔をそらした。
「別に隠さなくても良いよ。 俺が好きだからって、気を遣う必要なんかないからさ」
「え?」
勘違いしている沖田に、新田はまた視線を戻した。
「俺は、新田から神谷さんを取ろうとかそういうことは一切思ってないから。 ただ、彼女が幸せならそれで良いと思ってる。 だからもしそうなら、この話は俺が受ける。 それでどう?」
じっと沖田を顔を見ていた新田は、小さく息を吐いた。
「ああ、そうだ。 セイとはヨリを戻した。 だから、できれば俺はこっちに残りたい」
それを聞き、沖田は安心したように微笑んだ。
「良かった。 もう神谷さんを泣かせたりしちゃだめだよ」
「・・・・・・うん」
新田の返事を聞くと、沖田はタバコをスーツの内ポケットにしまった。
「じゃあそろそろ戻るか」
「そうだな」
部屋を出ようとした沖田に、新田が声をかける。
「沖田」
「え?」
「・・・・・・ごめん」
「何で?」
「いや・・・・ なんでもない。 大阪、頑張ってくれ」
「あははっ 言われなくても頑張るよ」
「そうだな」
喫煙室を出ると、2人は仕事に戻った。