涙色 1




「これでお嬢様と別れて頂けますか」
「・・・・・これは?」
「3000万用意させて頂きました。 もし少ないようなら、こちらに小切手を用意しておりますので、お好きな金額を書き込んで下さい」
そう言うと、目の前の無表情な男は総司の前に小切手を差し出した。
総司はその金の入ったスーツケースと小切手を、苦々しい思いでただ見下ろした。
隣にいる父親は、不安そうに総司を見つめている。


「一体、どういう事でしょうか」

総司は震えるこぶしを握りしめ、ギュッと唇を噛みしめた。















総司の恋人であるセイと知り合ったのは、1年ほど前の事だった。
父親が勤めている富永物産は、日本でも数本の指に入るほどの大企業である。
大学生の総司は、将来自分もその会社に就職するつもりでいた。
企業説明会を聞きに行く帰り道、会社の前で1人たたずんで困った表情の少女を見かけた。
今にも泣きそうな顔をして、おろおろしている彼女が気になり声をかけた。
その少女は富永物産の会長の孫娘で、富永セイと言った。
社長の父親に用があり会社までやってきたのだが、いざ帰ろうとすると車がどこにもいないという。
生まれてからずっと箱入りで過ごして来た少女は、電車はおろか、1人で街を歩いたことがないという。
一般人の総司にとって、そんな人間が本当に世の中にいるのかと驚いたのだが、放って帰る訳にもいかず住所を聞きタクシーで家まで送ったのだ。
どうしても何か礼がしたいと言い張るセイと、互いに連絡先を交換した。
数日後、すぐに彼女から電話があり自宅まで菓子折りを持ってやって来た。
それから、何かあるとセイは総司に電話を寄こすようになった。
セイとは何故か気が合った。
全く違った環境で育った為か、自分のする話をいつも大きな目を見開いて興味深々で聞いている。
表情をコロコロと変え、楽しそうに総司の話を聞くセイを、、総司も可愛いと思って見ていた。
そして2人がお互いに恋心を抱くようになるまで、そう時間はかからなかった。
だが、所詮住む世界の違う2人だ。
頻繁に2人が会う事を、彼女の両親が良く思うはずもなかった。
総司に会う事を、彼女の親が咎めるようになったのだが、それでもセイはこっそりと総司の元へ会いにきた。
そんな2人の逢瀬が、周りに気づかれない訳もなく。
とうとうセイの親からこうして使いがやってきた。





「お嬢様は、弊社にとってとても大切な方なのです。 今変な噂が立ってしまっては、今後の企業に影響が出かねません。 分かって頂けますか」
なかなか金を受け取ろうとしない総司に、男は淡々とそう言った。
「セイさんは・・ 彼女はこの事は知っているのですか」
顔を上げないまま、総司は訊ねた。
「いいえ。 お嬢様は我々の話を聞くような方ではありません。 なので、話の分かりそうなあなたへこうしてご相談に参っている訳です」
「嫌だと言ったら?」
「こちらは別れて頂けなければ困るのです。 どうしても嫌だとおっしゃるなら、こちらにも考えがあります」
その言葉に、総司は怪訝な顔をして男を見た。
「そちらにいらっしゃるお父さまに会社を辞めて頂くしかありません」
「なっ! 父は関係ないでしょう!」
思わず声を荒げて立ち上がった。
「それだけではありません。 他の企業への再就職をできなくする事も我々には簡単に出来ます。 そして、あなたの今後の就職活動にも影響が出るでしょう」

ギリッと歯を噛みしめ、総司は男を見下ろした。

「それだけ、お嬢様はわが社にとって大事な方なのです。 どうかご理解頂けませんか」
そう言うと、男は初めて総司と父親に向って丁寧に頭を下げた。


総司は悔しくて、今にも男に掴みかかりたい気持ちを何とか抑えた。
恐らく、この男も好きでこのような所へ来てこんな話をしているのではないのだろう。
仕方がないのだ。
所詮、住む世界が違う2人なのだ。
そんな事分かっていたはずなのに。
それでもどうしようもなくセイの事が好きになってしまっていた。



総司は、気持ちを落ち着かせる為に息を吐いた。

「お金は受け取れません」
「と言うと?」
「おっしゃるように致します。 でもこんなお金など受け取れません。 これを持ってお帰り下さい」
「別れて頂けるのですね?」
「・・・・・・ええ」
「ありがとうございます」
男はにっこりと微笑むと、その場に立ちあがった。
「本当にこれはいらないのですね?」
「いりません」
「分かりました」
仕方ないと言った表情で、男は素早く金と小切手をしまうと、総司と父親に深々と頭を下げると家を出て行った。




「総司、本当にこれで良かったのか?」
しばらく黙ってその場に座っていた父親は、隣でうなだれている息子へ声をかけた。
「・・・・僕なんかのつまらない恋愛感情で、父さんに迷惑をかけるわけにはいかないから。 ごめんね、嫌な思いさせて」
「総司・・」
息子の悲しそうな笑顔を見て、父親は胸が痛くなった。
しかしただの一社員の自分には、どうしてやることも出来ない。
総司の背中に肩に手を置くと、そっとその場を立った。











「総司さん! 私も今お電話しようとしていたところなんです!」
総司からの電話を受けたセイは、嬉しそうにそう言った。
「そうですか・・」
「この間総司さんから教えて頂いた遊園地、調べてみたのです。 とっても面白そうですね! 私遊園地なんて行ったことがないから、すごく行ってみたくなりました」
「・・・・」
「いつか連れて行って下さいませんか?」
「・・・ええ、そうですね」
「どうかしたのですか?」
いつもとは違う、明らかに暗い声の総司に、セイは不思議に思い訊ねた。
「セイさんに話があって今日は電話したのです」
「はい、総司さんからのお話なら何でも嬉しいです」
何も知らないセイの、無邪気な問に、総司の胸が痛くなる。
「セイさん・・ もう・・ 会うのをやめたいのです」
「え?」
「突然でごめんなさい。 でももう今までのようにあなたに会う事は、もう出来ません」
電話口の向こうから息を飲むのが分かった。
「私から今後あなたへ連絡をする事はしません。 なので、あなたの方からも連絡してくるのを辞めて頂きたいのです」
こんな事、言いたくないのに。
総司は拳の色が変わるほど強く手を握りながら、何度も練習した言葉をゆっくりとセイに告げた。
「・・・・何・・て」
信じられないといった様子で、言葉を発した。
「今までありがとうございました。 ・・・あなたと出会えて、楽しかったですよ」
「ちょっ、ちょっと待って下さい! いきなりすぎます、どうしてですか」
漸く全てを理解したセイは、声を荒げて総司に訊ねた。
「すみません。 言うつもりなどなかったのですが、正直疲れたんです」
「え?」
「住む世界が違いすぎます。 隠れてこそこそ会うのに疲れました。 私はもっと自由な恋愛がしたいんです」
「そんな・・・・」
まさか総司からそんな風に言われるとは思ってもいなかったセイは、ショックを受け黙り込んでしまった。
しばらく沈黙が続いた。
この電話を切ってしまえば、もう二度と彼女の声を聞く事が出来ない。
別れようと決心していたにも関わらず、最後の最後にその決心が鈍りそうになる。

「次にあなたが出会う男性が、あなたに相応しい人であることを願っていますよ」
「ま、待って! 私は総司さん以外考えられません」
「すみません、私にはもうあなたへの気持ちはありませんから」
「いやだっ 総司さん!」
とうとう泣きだしてしまったセイに、総司は息が詰まりそうになる。
「では切りますね」
「総司さんっ!」
泣き叫ぶセイの声を聞きながら、総司はギュッと目をつむり、電話を切った。



深いため息をつきながら、その場に座り込んだ。
きっとこれで良かったのだ。
セイと自分では、あまりにも不釣り合いだ。
このまま付き合っていても、未来がない。

そんな事、頭では分かっているのに、別れなければと思えば思うほどセイへの気持ちは更に強くなる。
「セイさん・・・」
そう呟くと、総司は手で顔を覆い項垂れた。
















セイに電話で別れを告げてから2週間が経った。
あれから互いに連絡する事はなかった。
数日後、突然総司の父親の昇進が決まった。
理由は聞かなくても明確だった。
申し訳なさそうにその事を報告してきた父に、総司は笑顔でおめでとうと言った。
これで良かったのだと思う。
未だセイの事を忘れられない総司だったが、何とかセイの事を忘れようと努力していた。
ふと彼女の笑顔や、最後に話した時の泣き声を思い出すと、会いたくてたまらなくなる。
それでも家族や自分のこれからの人生を考え、これで良かったのだと自分に言い聞かせようとしていた。












総司が家を出ると、目の前にいる人物に目を見開いた。
そこには、目を真赤に腫らしたセイが立っていた。

「セイ・・・さん」
見張りの目を掻い潜って来たのだろう。
周りには誰もおらず、セイが1人そこにいた。
ここへ来るには電車に乗らなければならない。
1人で街を歩く事も電車に乗ることもできなかった彼女が、必死でここまで来たのだという事に総司の胸が熱くなった。

「総司さん」
今にも泣きそうな顔で総司の傍へやってきた。
「何しに来たんですか」
抱きしめたい衝動を抑え、総司は冷たく言い放った。
「どうしても総司さんに会いたかったんです」
そう言うと、セイは総司の腕を掴んだ。
「・・・・放して下さい」
そうは言うが、自分から振りほどく事が出来ない。
「嫌ですっ! 本当の理由を教えて下さるまで私帰りません」
とうとうセイの瞳からは次々と涙が零れ落ちた。
「理由? そんなものは先日電話で話したでしょう。 疲れたのです。 それに、こうやって突然家に来られる事も迷惑です」
「総司さん・・・」
傷ついた目で総司の顔を見つめるが、そんなセイの顔を見る事が出来ない。
「今タクシー呼びますから、早く家へお帰りなさい」
そう言うと、総司は携帯を取り出した。
「総司さん、私結婚させられそうになっているのです」
タクシーを呼びだそうとボタンを押していた総司は、セイの言葉に思わず手を止めた。
「え?」
「総司さんから電話があったすぐ後です。 いきなり結婚が決まったと両親から言われました。 今日この後その相手と会う事になっているのです」
「・・・・・・。」
その事実に、総司は大きく動揺した。
別れるという事は、セイに新しい恋人や婚約者が出来て当然の事だ。

「何か関係があるのですか? 総司さんが別れると言ったのは、もしかして両親からそう言われてなのですか?」
「・・・・・違います」
総司は微かに震える手で携帯を閉じた。
「その事とは関係ありません。 別れるのは私の意志です。 結婚が決まったのなら良かったじゃないですか」
そう言うと、総司は笑って見せた。
「良かった・・・?」
「ええ、あなたのご両親が選んだ人なら、きっと素敵な方なのでしょう? 私みたいな一般人なんかよりも、あなたを幸せにしてくれますよ」
ちゃんと笑えているだろうか?
顔は引き攣っていないだろうか。
そんな事を考えながらも、総司は笑顔で言い続けた。
「早く私の事など忘れて、その方と幸せになって下さい」
そう言うと、総司は素早く電話をかけタクシーを呼んだ。
「すぐに来るみたいです。 それまで一緒にいてあげますから」
にっこり微笑んでそう言う総司に、セイは涙を流しながら何も言う事が出来ずただ呆然とその場に立っていた。






「では気をつけて。 もう会う事はないと思いますが、あなたの幸せを誰よりも祈っていますから」
「・・・・・・。」
俯いたままこちらを見ようとしないセイを見て、ふうっと溜息を着くと運転手に車を出すように告げた。
走り出した車を、総司は見えなくなるまで見続けた。

そしてしばらくその場に立ち尽くしていた総司だったが、ブンブンと頭を振ると歩き出した。